
日曜の夜、来週の予定表を見て、「またあの景色が始まるのか」とうんざりすること、ないでしょうか。
若い頃は、「未来が見えない」ことが不安でした。
何者になれるか分からない。それが怖かった。
でも今は、逆なんですよね。
「見えすぎる」ほうが、怖い。
正直に言うと、僕はこの曲の歌詞に入り込んでしまう事があります。
今日は、その話をします。
名前もない路上で、膝を抱えて
名前もない路上で ヒッチハイクしている
膝を抱えて待ってる
ここは荒れ果てていて 人の気配はないし
誰もここを通らないや
誰かに迎えに来てほしい。
でも、自分からは動けない。
膝を抱えて、ただ待ってる。この、能動的になれない感じ。
でも、次の行がきついんですよ。
進入禁止だって あらゆるもの拒絶して
追い払ったのは僕だから
孤独の一番しんどいところは、原因が自分にあると分かってることなんですよね。
誰も通らない荒れ果てた路上にいるのは、自分がみんなを追い払ったから。
分かってる。
分かってるけど、どうにもできない。
生きてる理由なんてない、だけど死にたくもない
生きてる理由なんてない
だけど死にたくもない
こうして今日をやり過ごしてる
この一行に、全部集約されてると思います。
客観的には、恵まれてるんですよ。
仕事もある、屋根もある、食うにも困ってない。
でも、朝起きる理由が、見つからない。
積極的に生きたいわけでもないけど、死にたいほど辛いわけでもない。
だから、「やり過ごす」。
……正直に書きますけど、僕、これをしょっちゅう思うんです。
先の知れた毎日を、生きてる理由もよく分からないまま、やり過ごしてる感覚。
たぶん、僕だけじゃないですよね。
この曲がこれだけ多くの人の胸に刺さるってことは、みんな、口に出さないだけで、同じ路上に膝を抱えて座ってるんだと思う。
桜井さんは、その本音を、綺麗事にせず、そのまま歌にしてしまう。
だから、信用できるんですよね。
1回目のサビ ── 目を閉じて、過ごしている
生まれたての僕らの前にはただ 果てしない未来があって
それを信じてれば 何も恐れずにいられた
そして今僕の目の前に横たわる 先の知れた未来を
信じたくなくて 目を閉じて過ごしている
10代の頃は、根拠もなく信じられた。
「きっと素晴らしい未来が待ってる」って。
あの頃の未来は、「果てしない」ものでした。
でも今、目の前にあるのは「先の知れた未来」。
「横たわる」という言葉が絶妙で。普通なら「広がる未来」と言うところを、まるで重荷みたいに、横たえてある。
昇進のペースも、人間関係の輪郭も、だいたい見えてしまった。
飲み会で「最近どう?」と聞かれて「まあ、ぼちぼちです」と答える。5年前も、同じこと言ってた。
で、この1回目のサビ、その先の知れた未来にどう向き合うかというと——「目を閉じて過ごしている」。
見ないようにしてる。逃避です。ここ、覚えておいてくださいね。この後、向き合い方が、変わっていきます。
車のセクション ── 愛が、冷えていく
女が運転する 車が止まって 「乗せてあげる」と言った
僕は感謝を告げて 車のドアを開いて 助手席に座って また礼を言う
しばらく走ると僕は 硬いシートに 居心地が悪くなって
女の話に相槌打つのも嫌になって 眠ったふりした
ここ、ただの「親切な人とのドライブ」じゃないんですよね。
最初は感謝してる。
でも、だんだん居心地が悪くなって、相槌を打つのも嫌になって、眠ったふりをする。
なぜこれが、ただの人間関係の話じゃないと分かるかというと、この直後のサビで、種が明かされるからです。
出会った日の僕らの前にはただ 美しい予感があって
それを信じたまま 甘い恋をしていられた
そして今 音もたてず忍び寄る
この別れの予感を 信じたくなくて 光を探している
「甘い恋」「別れの予感」。
そう、車に乗せてくれた女性は、たぶん、恋人か、連れ合いなんです。
出会った日には「美しい予感」があって、甘い恋をしていた。
その同じ相手と、今、同じ車に乗っているのに、相槌すら嫌になって、眠ったふりをしている。
愛が、音もたてず、冷えていく。その過程を、車という密室で描いてる。
そして、ここでの向き合い方は、「光を探している」。
1回目の「目を閉じて過ごす」よりは、ほんの少しだけ前向き。
閉じてた目を開けて、光を探し始めてる。
でも、まだ受け身です。光が「来る」のを、探してるだけ。
3回目のサビ ── 目を閉じる、から、変えてみせる、まで
そして、最後のサビ。同じ「先の知れた未来」が、また出てきます。でも、今度は違う。
そして今僕の目の前に横たわる
先の知れた未来を 信じたくなくて
すこしだけあがいてみる
ここまで来て、気づくんです。
この曲、同じ「信じたくない」という言葉に対して、向き合い方が、サビのたびに少しずつ進化してたんだ、と。
1回目「目を閉じて過ごしている」(逃避)。
2回目「光を探している」(受け身)。
3回目「すこしだけあがいてみる」(能動)。
目を閉じてた人が、光を探し始めて、ついに、自分から動く。
「あがく」。
この「すこしだけ」が、いいんですよ。
人生を変えなくていい。毎日筋トレしなくていい。
ただ「すこしだけ」。
「頑張る」じゃなくて「あがく」。不格好でいいから、それでも。
そして、あがいた先で、こうなる。
いつかこの僕の目の前に横たわる
先の知れた未来を 変えてみせると
この胸に刻みつけるよ
自分を信じたなら ほら未来が動き出す
ヒッチハイクをしてる 僕を迎えに行こう
「すこしだけあがいてみる」が、「変えてみせる」になり、「未来が動き出す」になる。
逃避→受け身→能動→決意。
同じ未来を前に、人間が、一段ずつ、立ち上がっていく。
そして最後の一行。「ヒッチハイクをしてる 僕を迎えに行こう」。
最初、膝を抱えて「誰か迎えに来て」と待ってた主人公が、最後は、自分で迎えに行く。
誰を? ——あの、名前もない路上で膝を抱えてた、過去の自分を。
誰も来ないと分かってて待ってた自分を、今の自分が、迎えに行く。
さいごに ── これも、あがきです
正直に告白すると。
僕は、この曲の路上に、しょっちゅう座っています。
生きてる理由なんてよく分からなくて、でも死にたいわけでもなくて、先の知れた未来を、目を閉じてやり過ごしたくなる。
30代も、その先も、ふとした瞬間に、あの路上に戻ってる。
でも、だから、あがくんです。
実は、このブログを書いていること自体が、僕の「すこしだけあがいてみる」なんですよね。
誰に頼まれたわけでもない。お金になるわけでもない。
ただ、好きな曲のことを、こうして言葉にしている。
これが、僕にとっての、あがきです。
先の知れた未来に、目を閉じて沈んでしまわないための、ささやかな抵抗。
たいしたことじゃない。人生は、何も変わらないかもしれない。
でも、「すこしだけ」なら、できる。
膝を抱えて待ってるだけだった自分を、文章を書くことで、ほんの少し、迎えに行ってる気がするんです。
この曲が30代以降に震えるほど刺さるのは、たぶん、ここなんだと思います。
「先の知れた未来」を、ちゃんと見せたうえで。
それでも「すこしだけあがいてみる」と、小さく差し出してくれる。
大逆転は約束しない。でも、あがいていい、と言ってくれる。
……今日も、すこしだけ、あがいてみます。